▶ 寒香知龍
  
     令和4年 浄光寺新聞  9月 『秋彼岸号』 より
  まだまだ暑い日差しや山の緑の中にも、涼風や落ち葉に秋の気配を感じている浄光寺ですが、
 皆様ご機嫌如何でしょうか。


 ただいま浄光寺では、先の総会で少しでもお参りの妨げが
 無いようにと、ご門徒の皆様にご了承いただきましたバリアフリートイレを、
 境内のガレージに増設しました。

 いかんせんお寺は、階段や段差が多くバリアだらけでしたので、
 これによってお寺で一緒に お念仏喜べる方が増えること、何より喜ばしいと思っております。


  最近、安部元首相の国葬の是非が連日ニュースになっておりますが
 あの件も「何故やるのか?」というところを
真剣に考えるべきかと思います。
 一時の感情で周りを
振り回す所業は、おそらく良い結果は産みません。
 葬儀とは、故人の遺徳を偲び自らの行く末を見つめる儀式です。
 故人の功績を自分に投影する儀式ではありません。
 今後の利を主体としてやるものでもありません。
 そして故人の望みを叶える儀式でもありません。
 何をしようが終わっていかねばならない命であるという
 ことを受け止める儀式であり、お念仏によってその先の
 お浄土を知らされるご縁です。

   煩悩具足の凡夫、
   火宅無常の世界は
   よろずの事 みなもて   
   そらごと たわごと
   まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞ
   まことにておわします
   蓮如上人「歎異抄:後序」
           お称名なんまんだぶ なんまんだぶ 若院 釋 知龍


 
     令和4年 浄光寺新聞  7月 『お盆号』 より
  お盆が近づくにつれて暑くなってきましたね。
 特に今年は梅雨がもう明けたそうで、じめじめせずに
 うれしくもありますが、今度は水不足が心配されるところです。
 マスクをされる機会も多いでしょうから、皆様熱中症にも、お気を付けください。
 そんな中、私は今年の八月で四十歳になります。小さい頃は二十歳が、遠いような気がしていましたが、
 いつの間にか、その倍が過ぎてしまいました。いずれお浄土に参る身であるという話は、度々するものの、
 日々いつも通りだと思って生きておりましたし、おそらくお浄土に参る前日まで、そう考えているのだ
 と思います。
 そんなぼんやりしている私だと、気付かせていただくからこそ、お念仏によって救われていく世界が先に
 準備されている有難さがあります。
 いつ終わるとも知れない命と知らせていただいても、阿弥陀様を信じて、お念仏唱えた後の臨終に、
 焦る必要はありません。

  かたちも ましまさぬ やうを しらせんとて、
  はじめて弥陀仏と申すとぞ、
  ききならひて候ふ。
  弥陀仏は 自然(じねん)のやうを
  しらせん料(ため)なり。

       「末燈抄」 親鸞聖人 八十六歳

     令和4年 浄光寺新聞  5月 『降誕会号』 より
   世の中きな臭くなってきましたね。
  歴史上、疫病が流行ると連動して 社会情勢も 不穏になります。
  人間の本質は 五千年前とあまり変わっていないようです。
  戦争に限らず、不安によるストレスで 荒んだニュースが多いように思います。
  先日あったアカデミー賞でのひと悶着で、何年か前に教師に暴言を吐いて、
  怒った教師から殴られている生徒の動画を思い出しました。
  暴力を肯定する世界に身を置けば、必ず暴力の応酬に巻き込まれます。
  暴力とは何も殴る蹴るだけではありません。
  悪意を持った威圧は全て暴力です。
  そして 悪意が無くとも傷ついた人間がいれば、それは暴力です。
  撮影者を含めてあの中に善人は一人もいません。
  自分がどういう気持ちだったかではなく、相手がどう感じたかが全てです。
  アカデミー賞で 傷つく人がいたジョークを言った側も、暴力を振るった側も、
  それを笑っていた人々も全て加害者です。
  冒頭の言葉に示されるように暴力を振るう側、振るわれる側共に
  自分の怒りは 誰も止めてくれず、止めることが出来るのは
  自分だけではありますが 御縁揃えば、どんなことでもするのが我々です。
  もし、平穏を感じられた時は、その瞬間 本当に尊い
  ご縁の中にいることに気付き、喜びましょう。 

          お称名 釋 知龍
        令和4年 浄光寺新聞  3月 『春彼岸号』 より
          『 縁起 』
 縁起がよい、縁起が悪い、縁起をかつぐ、という具合に、吉凶の前兆として、
 縁起という言葉はよく使われます。良い方にも悪い方にも使われる、めずらしい
 言葉です。
 また、本来の意味からは、かなりかけ離れた使い方をされている言葉です。
 もともとは、さまざまな原因(因)や条件(縁)が相互に関係しあって、すべてのもの
 が存在している、という考え方です。
 逆に、いろいろな条件や原因が無くなれば、結果もおのずから無くなる、という
 考え方です。
 「縁起」という言葉は(いわれ、ゆかり、関わり)などといった雰囲気で使われますが、
 本来は(無我、空、中道、法)といった言葉と同じ意味です。
 「縁起を見るものは 法=真理 を見る、 法を見るものは縁起を見る」という言葉があります。
 世の中のものは、すべて相互に関係しあって存在している、因縁によって生ずる、
 ということです。
 「戦争」も必ず、それなりの結果が付いてくるということです。 

 昨年、一昨年共に 皆様もご苦労の多い年で あったかと存じます。
 世間では デマや憶測による心無い噂、論説等も多く見受けられました。
 出来るだけ お互いに寄り添うことを思い出す一年になればと思います。
 現在の 情勢を 見ますに、本年もまだまだ 注意の必要な年でありましょうが、
 阿弥陀様の「あなたを一人にはさせない、必ず救わずにはおれない」という、
 お誓いを信じ、お念仏で繋がるご縁を 大切にいたしましょう。
       釋 知龍
      『死者みとれぬコロナの残酷』    柳田邦男「朝日新聞より 転載」
  二十七年前に脳死状態となった次男を亡くした柳田さん。
 「無言の会話をした」という日々を振り返り、コロナ禍での弔いのあり方を考えます。
 月刊誌に発表したルポで、新型コロナによる死を「さよならのない死」と意味づけました。
  「コロナでは、入院した患者が家族と一度も会えないまま、亡くなった例が多くありました。
 『さよなら』を言えなかった死別は、残された家族の心に複雑なトラウマを生じさせる
 ことがあります。
 そんな問題意識を持ちつつ、コロナ患者を受け入れた病院関係者を中心に取材を
 始めました」志村けんさんも発症から約二週間で亡くなりました。
 みとれなかった肉親は遺骨の入った箱でやっと再会できた、と。
 「志村さんの死は衝撃的で、コロナ死の特異性を痛感しました。入院後すぐ重症化し
 死に至るという点では突然死に近く、災害や事故、事件で突然、身近な人間を
 失ってしまう死別に近いです。 
 米国のミネソタ大学のポーリン・ボス名誉教授の言う『あいまいな喪失』 に該当します。
 生きているか死んでいるかわからない別れという意味です。
 みとれずに遺骨だけが戻っても、家族はあいまいな喪失感を抱えたまま、 葛藤に
 苦しむことがあります」…感染が急拡大した春先は、病院が患者の家族のケアを
 する余力がなかったのでは。
 「それでも、急きょタブレット端末を四十台購入した聖路加国際病院 (東京都中央区)
 や、屋外のプレハブ面会小屋で患者と家族を機器でつなげた聖マリアンナ医科大病院(川崎市)
 感染症専門病棟でiPadを使える体制を整えていた国立国際医療研究センター(東京都新宿区)
 などでは、患者と家族がオンラインで意思疎通することができま した。
 画面越しに表情も見えるし、言葉をかけられる。双方に心の支えにはなりました。
 ただ、医師も『次善の策』と言っています」…タブレットやiPadでは、対面と違いますか。
 「本質的に違います。その場で手を握り、体をさすり、耳元で声をかける。
 ぬくもりが言わば『心の血流』となって伝わります。・・・・・・・。